鏡開きはいつ?九州が1月11日なのはこんな理由!

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毎年、お正月気分も消えた頃、何となくですが
頭をよぎることがあります。

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そういえば、子供の頃、両親にこんなことを
言われた記憶があります。

「日本には、鏡開きの日にちが2通り
あるんだよ。」と。

 
というのも、私の両親は、九州出身。

現在の居住地の関東甲信越に来るまで、
九州から関西へ、そして関東と関西を
行ったり来たり。

両親は、その土地によって、風習が違うことに、
とても興味を持っていたようです。

 

ある年の鏡開きの時期に、今回は関西風でね、
と、母が言ったのを覚えています。

「関西だと、鏡開きは1月15日か20日よ。」
と教えてくれました。

「じゃあ、九州だといつなの?」
母の答えは、「関東と一緒よ。」

何で、関西を飛び越して、九州は関東と一緒なの?

 
九州の鏡開きの日にちについて、歴史を紐解く
ような興味深い話!

私の母から聞いた、奥深い理由を紹介しますね♪

鏡開きとは?

鏡開きは、「鏡餅」を金づちなどで割って、
食べる習慣のことを言いますね。

 
鏡餅は、新しい年を運ぶ歳神さまへの大切な
お供え物です。

お正月は、歳神さまをお迎えし、お供えした
鏡餅を宿り場にする、と言われています。

鏡餅をお正月の間、食べずに飾っておくのは
歳神さまのが宿っているから。

 

しかし、俗にお正月と呼ばれる「松の内」が
過ぎると、歳神さまは鏡餅から去って行きます。

歳神さまの力が宿った鏡餅を、松の内が過ぎた
頃に頂き、無病息災を祈ることを、鏡開きと言います。

 
でも、この松の内が○○によって、違うんです!

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松の内は地域によって違う!

この「松の内」とは、元旦から1月7日まで
ことを示すのが、一般的ですよね。

鏡開きが行われる日にちは、一般的には松の内が
明けた頃、1月11日になります。

 
しかし、母によると、関西地域では松の内が
1月15日までとされていることが多い、との事。

地域によって、鏡開きの日にちにがあるのは
歴史の教科書にも出てくる、あることが所以と
なっているのです。

 
この理由を聞いた時、歴史の面白さにワクワク
しました!

 

鏡開きは江戸時代に広まった!

鏡開きが全国的に広まるようになったのは、
徳川幕府第3代将軍、家光によるもの、
と言われています。

 

家光と言えば、「参勤交代」ですね。

諸大名は、1年おきに江戸を目指して行かねば
なりませんでした。

 
東北地方の仙台藩~九州地方の薩摩藩まで、
遠い地域の藩の苦労は、計り知れないもの。

この参勤交代制度をきっかけに、様々な地域の
多くの人々が、江戸の風習をそれぞれの故郷に
持ち帰った、とされています。

 

家光が生きている時代には、松の内が
15日、鏡開きが鏡開きが20日

 

しかし、家光が亡くなった4月20日を理由に、
月命日である20日は、忌み日となりました。

家光の死後は、松の内を7日、鏡開きを11日に
変更した、とされています。

 

この日にちのお触れも、参勤交代をきっかけに
全国に広まっていきます。

しかし、どうした訳なのか、関西地域には
この日にちの変更が広がらなかったために、
現在でも、20日に鏡開きを行うのです。

 

一説によると、関西地方は徳川幕府の影響力
他の地域よりも、それほど強くなかったため、

鏡開きの日にちも、変更されなかったのでは、
と言われています。

 

まとめ

鏡開きの日にちが、2通りあるのには、江戸時代の
参勤交代制度がきっかけだったんですね。

日本列島のうち、関西地方を通り越して
九州の鏡開きの日にちが、江戸風となったのも、
徳川家光がきっかけ。

 
母に、この事を聞いた後、もっと色々と知りたくて
調べてみたところ、こんなことも。

武家社会の慣わしによって、広まった鏡開き。
鏡開きには、武士らしい一面もあります。

鏡餅を刃物で切ることは、「切腹」をイメージ
させるため、木槌などで割ることになっています。

 

更に、「割る」は、縁起の悪い言葉なので、
開く」に置き換えて、鏡開きとなったのですよ。

知れば知るほど、奥の深い日本の文化。

当たり前に行ってきた行事にも、ちゃんとした
意味があるものです。

江戸時代から続く文化だと思えばこそ、鏡開きにも
愛着が沸くものですね。

コメント

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